明日からエアチャイナの北京経由でバンコク行ってきます。
海外旅行するうえで重要なのは人それぞれだと思うけど、ぼくはコミュニケーション能力が大切だと胸を張って言い切れる。
鳩胸を張って。
で、コミュニケーション能力ってなんやねん?ってなるよね。
定義はなんやと。
ぼくは臆せずに誰とでも良い関係を築こうとする姿勢だと思っている。
(姿勢とエクスキューズを付けたけど、これはやはり万人が善良な人だと限らないから、自分にとってその人と交わると悪いことが起きると感じたらそれは避けましょう。)
一瞬の出会いでもいい。言葉が全く違うローカルの人とでもいい。
どこかで誰かと交わったら、極力その人の良い面を探し自分の良い面を伝えコミュニケーションをやったほうが良い。
外国の言葉(英語)ができない?そんなのほんと関係ないです。
ぼくは数年前にチェコに行ったとき、名もなき小さな町で終バスを乗り過ごし途方に暮れていた。
そこはホテルもないような町で(探せばあるんだろうけど、バス乗り場は町の中心部から少し外れていた)、ぼくはどうしようもなく座り込んでいた。
しかもそれは運の悪いことに秋から冬になるくらいの時期で、夕方からは肌寒いを通り越し、身体が震えてくるような感覚を感じていた。
ヒッチハイクを試みるが、車を全く見かけずあたりが闇に包まれようとしていた。
途方に暮れてから時間にして30分ほどだっただろうか、1台の車が通りかかった。
老夫婦だったんだけど、車の窓から身を乗り出しどうしたんだ?みたいなジェスチャーで問いかけてきた。
ぼくは状況を説明するも車に乗っていた老夫婦は英語は全く理解できず、なかなか要領を得なく、そのまま走り去っていった。
ぼくはこりゃダメだな、とりあえず町へ戻ろうと(歩いて2時間ほどかかったと思う)歩き出した。
途中で見つけたポストに日本の家族宛に絵葉書を出した。
ぼくはチェコのこういう町にいます、もし帰国しなかったら探しに来てくださいと。
そしてよくわからない道を歩いて1時間半くらいたった頃か、先ほど会話した老夫婦の車が戻ってきた。
そして彼らはぼくを車に乗せ、そしてなんと家に招待してくれた。
その家で僕たちは会話にならないほど、ほぼジェスチャーで時間を過ごしたんだけど、そこでわかったのが、老夫婦はぼくを怪しいアジア人だと思ったらしく、思案した結果ぼくを乗せずに町に行ったらしい。
そこでなんと映画を1本見て、また来た道を戻るとぼくがいたので、これは本当に困っている旅人なんだということで家に連れて行こうとしたんだって。
もし怪しいアジア人なら1時間以上もあんなとこにいないだろうと。
そしてその家では温かいシチューでおもてなしをしてくれて、お互い言いたいことが伝わらなくても素敵な時間を過ごせた。
その夜は空いている部屋でぼくはぐっすり寝た。
翌日は彼らがぼくをバス停まで送ってくれて、ぼくはそこから無事に日本に戻ることができた。
ぼくはそれからチェコが大好きになった。
1つの小さなコミュニケーションがきっかけで小さな物語が生まれた。
ぼくは日本に帰ってから時折彼ら宛に手紙を出し、また彼らからももらうというような関係が続いた。(いつ頃かそれが途絶えてしまったんだけど。。。)
そんなちょっとした知り合いなんて旅に出れば多くあるだろう。
宿泊している宿でも出会いなんてあるだろうし、乗り合ったバスの中でだって出会いはある。
そして少しコミュニケーションを取れば、小さな物語になることだってある。
でもこれって旅先だけに限らない。
日本での日常でだって、出会いなんて無数にある。
それを大切にするかどうか。
出会いを通して何かを学べるかどうか。
たくさんの知り合い・友人がいるのが良い人生だなんて思わないけど、たくさんの思い出があるのは良い人生だとぼくは思う。
思い返してみて、ほっこり心が温かくなる思い出。
そういうのが生きていてくじけそうになったときや、何か壁にあたったときに力になってくれる。
大げさじゃなく。
ただ、難しいのは出会いとは良いことばかりじゃないということ。
この前にあったカナダでの邦人殺人事件もそうだけど、出会いから悲しいことも生まれるのも事実。
世界には多種多様な人がいて、それぞれに抱えている背景は違う。
分かり合えるという薄っぺらい言葉は響かないけど、 分かろうとする姿勢は大切。
そしてその一歩はやはりコミュニケーションから発展する。
臆せず、自分を出して相手を知ることからスタートしてみる。
そして自分の物語を多く作っていきたい。
これがぼくの人生。
それが大切だと思っている。